淀川長治:明治、大正、昭和、平成にかけて生涯現役、映画一筋に生きた不世出の映画評論家 - 淀川長治さんを語る〜高澤瑛一

淀川長治:明治、大正、昭和、平成にかけて生涯現役、映画一筋に生きた不世出の映画評論家
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淀川長治さんを語る〜高澤瑛一



淀川長治さんの思い出

高澤瑛一

高澤瑛一氏プロフィール
1939年、東京生まれ。1962年、早稲田大学商学部卒業。在学中、映画研究会に所属。印刷会社の営業部勤務を経て、アメリカ大手映画会社の宣伝部に勤務。その後、映画雑誌2誌の編集部に約39年間在籍。並行して、映画評論家として執筆業に従事。

この十数年間は、中国語圏を中心に、アジア・中近東の映画に主眼を置いて執筆を展開。主な著書に「事典映画美」全3巻(朝日ソノラマ)、「映画にみるアメリカの青春」(TBSブリタニカ)、「ラストシーンをもう一度/名画のエンディング Best80」(清水書院)、翻訳書に「刑事コロンボ/偶像のレクイエム」「ファニー・レディ」(二見書房)などがある。08年にはCDBOX「映画音楽名画劇場」(テイチクエンタテインメント)の解説を執筆。日本映画ペンクラブ会員。

淀川さんに、胸をどつかれた!?…お話

 外出先から淀川さんに電話して、原稿依頼をしたことがあります。話が終わると、「わかりました。すぐ原稿を書きますよ。もう明日、死にますからね!」と、突然の一撃。公衆電話なので、とっさに返事をかえせず「はあ…」とか答えてしまった。
その途端、「あんた、私に死んでほしいの?」という大逆襲が。晩年の淀川さんは、「明日、死にますからね」が口癖。でも、うっかりした返事をすると、こんなお叱り(?)がかえってきたものです。

 また、イベントに出席していただくため、淀川さんを滞在先のホテルまでお迎えに行ったときのこと。念のために雑誌の編集部から、「いま編集部を出発しますから」という電話を入れておいた。
ホテルに到着すると、すでに淀川さんはロビーで待機中。待っていて下さったんだ、と思っていると、突然、胸をどつかれました(ぜんぜん痛くはなかったけれど)。「20分も待っていたんだから!」と。つまり、編集部からの電話を「いま、ホテルに着いたところ」と聞き間違えた(?)らしい。
これって、どちらが悪いと思います?


 ぼくが20代のはじめ、映画会社の宣伝部に入りたてのころ。電話を受けたら、有名な淀川さんから宣伝部の先輩にあてたもの。そこで「淀長(よどちょう)さんから、お電話です」と、張り切って受話器を渡した。
先輩は、話が終わると受話器を回してきて、「先生から、お話が…」と言う。なにごとかと受話器を受け取ると、「あんた、名前はなんていうの。私は淀長じゃないよ。ちゃんと名前を呼びなさいね!」と怒られた。
十分に受話器を手でふさいでいなかったのですね。当時、淀川さんは週刊朝日で「淀長映画館」という評論記事を連載しておられ、“淀長さん”があだ名になっていた。それで、そのときは「なんだ、こんにゃろ!」と思いましたが、考えてみれば当たり前ですね。
淀川さんほどの人を、若造が「淀長さん」なんて、あだ名で呼んではいけない。以後、肝に銘じた一瞬でした。
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